二人が来ることを告げると賢子は急ぎ足で屋敷の中に消えていった。滅多に走らない賢子が小走りで兼茂の部屋から遠ざかって行ったから相当慌てているのだろう。
それにしても、一対一なら絶対に負けなかったのにと思う。相手が大人であっても兼茂は決して負けない自信があった。実際、これまで幾度となく百姓達と遊ぶうちに喧嘩に巻き込まれ、かなり壮絶な戦いをしてきた。
ところが、複数の相手に一度に掛かられては一人一人組み付いて戦うことはできなかった。四方八方から足や手が出て、気がつけば無抵抗のまま打ちのめされてしまっていたのだった。
勉強は嫌いだが体を使うことは大好きである。特に戦うこととなると徹底的に納得するまで考えてしま性格であった。
この性格が勉強にも生かすことができれば景鑑、景行にも負けないのにと、我ながら愉快になってくる。
しばらくすると廊下を歩いてくる小さな足音が聞こえてきた。足音は部屋の前でそっと止まった。そして几帳の上に二つの小さな頭が見えた。
「よく来たね。こちらへおいでなさい」
兼茂はやさしく二人に声をかけた。几帳の角から嬉しそうに顔を見せた二人は、兼茂の顔を見ると途端に泣き出しそうになった。
「心配しなくていいよ。転んだだけだから大丈夫だよ」
それにしても、二人の妹のびっくりした大きな瞳を見ると、相当すごい形相になっているのがわかる。腫れは時が経つ程にひどくなっているようだった。
二人を安心させようとほほ笑んだ。その瞬間、刺すような痛みが顔面を走り兼茂の表情は苦痛に歪んだ。
「いてててて」
無理しておどけた調子で言うと二人は転げるように兼茂の元に駆け寄ってきた。
それからしばらくして賢子に言われたのか治療のために屋敷の者が部屋に来たが「必要ない」と追い返した。
衍子はともかく色が白い。透き通るような肌というのは、このような肌をいうのだと思う。それに引き換え寧子は肌の色が幾分黒かった。兼茂はそれはそれで寧子も十分かわいいと思うのだが、いつか賢子が、「寧子さまはお肌の色が黒くておかわいそうでございます」と言っていたから、多分その通りなのだろうと思う。母親の宣来子は抜けるように肌の色が白いから衍子は母親似なのだろう。それに対して父親の道真は色が黒いから寧子は父親似なのだろう。
兼茂は、自分自身どちらに似ているのだろうかなんて今まで一度も考えたことはなかった。景鑑、景行とは全然似てないので、多分母親似なのかもしれない。
いつの間にか兼茂の膝の上で寧子は人形を持ったまま眠ってしまった。そして、眠った寧子を気にするでもなく、兼茂の前で一心不乱に人形で遊んでいる衍子は、もう少しすると裳着の式を迎えることになっていた。
道真は身動きすらままならない狭い牛車に苛立ち、遅い歩みに苛立っていた。そして何より我が子兼茂に腹を立てていた。今日こそは勘弁ならないと堅く心に誓っていた。宮中において自分の評価をおとしめる存在は許すことができなかった。
いつものように牛車に乗った道真が庭内に入ってきた。菅原家では全員がそれを出迎える。ところが、出迎えの人の中に兼茂の姿はなかった。
それもその筈である。夕方から兼茂は昼間の怪我から熱を出して眠り込んでいた。賢子が何度も部屋に行き、道真が帰ってきたことを告げても起きなかった。顔はますます腫れ上がり、痣は誰の目にもそれとわかる色をしていた。そんな兼茂が出迎えの中にいては事を大きくするだけである。出迎えるべき息子がいないので当然道真に叱られはするだろうが、景鑑、景行の前で兼茂が叱られるのを賢子は見たくなかった。自分もお叱りを受けるだろうが、それはそれでしかたのないことだと諦めていた。
兼茂は熱にうなされながら夢を見ていた。眩いばかりにきらびやかな牛車の中には景鑑と景行の二人が乗っていた。二人は牛車の簾を上げ、兼茂が侍従に散々に殴られている様子を嬉しそうに見ていた。口元を押さえ、嬉し涙さえ流しながら身をくねらせて笑っていた。くやしくてくやしくてしかたがなかった。牛車に近付こうとするのだが、足は地面の中に埋まって動かそうとしても一歩も動かなかった。手も皮紐でしっかりと結わえられ、自由に動かすことができなかった。それでも無理に動かそうとすると、体中がばらばらに砕けるかのような痛みが走った。殴られ蹴られ遠のき始めた意識の中で、誰かが兼茂の名前を呼び続けていた。始めの方は遠い遠いところから微かに聞こえてきた声であったが、声は次第に大きく兼茂の元に近付いてくるのだった。
「起きよ、兼茂」
はっきりと兼茂を呼ぶ声で夢は終わった。そして夢から覚めた兼茂が目にしたものは、薄暗がりの中で自分を見下ろし、仁王立ちになっていた父、道真の姿だった。
「どうしたのだ。一体お前は何をしでかしたのだ」
息子の体を心配したやさしい言葉ではないことは、父親の声の調子と顔付きから瞬時に判断することができた。
「転んだのです」
起きたばかりで頭の回転が元に戻らない兼茂は賢子に言った嘘をかろうじて思い出し、父親にも同じ嘘を言った。
「たわけ、父に偽りの言葉など通用せぬわ」
道真のあまりの剣幕に几帳が倒れそうになった。鋭い眼光に射すくめられ、兼茂は言葉を失ってしまった。
「申してみよ、本当の事を全て申せ」
兼茂は観念した。普段の父、道真は大変冷静な男である。それに当代随一の頭脳を持つ評判も高い学者である。しかしその一方で大変な感情家である。喜怒哀楽がはっきりしており、逆鱗に降れるととんでもないことになってしまう。このまま嘘を付き通せるとは思えなかった。
「誰かの侍従に散々に打ち据えられました。でも、私は悪いことはしておりません。勘違いされたのです」
「たわけ者、父の言いつけを守もらず勉強を放棄して、事もあろうか源能有(みなもとのよしあり)どのの牛車に狼藉をしかけるとは何たることぞ。本来ならそれ相当のお咎めがあるところだが、道真の息子のこととて宇多天皇もお許し下されたが、何と父に恥をかかす気か。今後父が許可するまで一切の外出はまかりならぬ、よいか兼茂」
一気にそれだけを言うと、足音も荒く道真は兼茂の部屋を後にした。後には静寂だけが残り香のように漂っていた。
(そうか、源能有どのの牛車であったか、臣籍に下ったとはいえ、さすがは皇族だ)
兼茂は昼間の牛車の中にいた人物がはっきりしたことで、何だか少しだけほっとした。
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